2006年12月

もう一人のメダリスト

 硫黄島で戦死した五輪メダリストといえば、多くの人はバロン西こと西竹一中佐を連想されると思います。西中佐は昭和7年(1932)のロサンゼルス大会の最終種目・馬術障害にて見事優勝し日米の英雄となりました。そして、硫黄島での最期と併せて、バロン西の生涯は栄光と悲劇を織り交ぜて語り継がれています。
 一方、奇しくも同じ大会に参加し、水泳の男子100m自由形で銀メダルを獲得した河石達吾(かわいし たつご)選手もその12年後、西竹一中佐と時を同じくして硫黄島に渡ることになったのです。

 今日は、西中佐に比べ、ほとんど語られることのなかった河石中尉について紹介します。

 大学3年の時、河石は五輪代表に選ばれた。6月に決定した水泳代表41人のうち、男子100m自由形代表選手は、宮崎康二(浜松一中、現:浜松北高校)・高橋成夫(早大)・河石達吾(慶大)の3人。選考大会での成績は5位と振るわなかったため、代表に選ばれることはないと考えていた河石は発表の当日、会場の神宮水泳場(現:神宮プール)には行かず、銀座に出かけていたが、店のラジオからニュースが流れ、自分の名前が代表選手として報じられたのであわてて会場に駆けつけたとの話が残っている。

 昭和7年8月6日15時30分、水泳の2日目、男子100m自由形の決勝戦が行われた。会場には約8千人の観客が詰めかけていた。

 決勝に進出した選手は日米それぞれ3名ずつ、
 1.シュワルツ 2.河石 3.トムソン 4.高橋 5.宮崎 6.カリリ
 の順番でコースに並んだ。

 レースはまずトムソンが飛び出し、カリリと宮崎がこれに続いた。50mのターンの時点で河石は5位であった。しかし後半、宮崎と河石は順位を上げ、ゴール直前、一気に先頭に出た。

 結果は、宮崎が優勝(58秒2)、河石が2位(58秒6)、シュワルツが3位(58秒8)、高橋は5位(59秒2)であった。
 しかも宮崎のタイムは五輪新記録であり、河石もまた五輪記録タイ、高橋は日本記録タイという堂々たる成績であった。

 河石は「カリリやシュワルツ等に勝つとは夢にも思いませんでした。私としては最後のタッチに気をつけて、それで幾分なりとも勝とうと努力したつもりです。」と試合直後のインタビューに答えている。 

 この大会で男子水泳は6種目中5種目で優勝するという素晴らしい成果をあげ、まさに「水泳王国日本」であったが、一方で河石選手のように好成績ながら金メダルに届かなかった選手の活躍が目立たなくなってしまったことは否めない。

第10回ロサンゼルス五輪

大会期間  : 1932年7月30日-8月14日
種目数   : 16競技128種目
参加国数  : 37
参加選手数 : 1328

日本人参加人数 : 192

日本のメダル数

金:7

☆南部忠平 三段跳び
☆宮崎康二 100m自由形
☆北村久寿雄 1500m自由形
☆清川正二 100m背泳ぎ
☆鶴田義行 200m平泳ぎ
☆競泳男子800mリレー
☆西竹一 馬術・大賞典障害飛越個人

銀:7

☆西田修平 棒高跳び
☆ホッケー
☆河石達吾 100m自由形
☆牧野正蔵 1500m自由形
☆入江稔夫 100m背泳ぎ
☆小池礼三 200m平泳ぎ
☆前畑秀子 200m平泳ぎ

銅:4

☆大島鎌吉 三段跳び
☆大横田 勉 400m自由形
☆河津憲太郎 100m背泳ぎ
☆南部忠平 走り幅跳び

 この大会は、前年に満州事変が勃発するなど、地元では反日感情も高まっていた中で開催された。40年に東京での五輪招致を目指す日本は大選手団を派遣。あわせて18個のメダルを獲得して、世界の一流スポーツ国への名乗りをあげた。

 競泳で男子が6種目中5種目を制した。特に100メートル背泳ぎでは清川正二、入江稔夫、河津憲太郎の3人で、金銀銅の各メダルを独占し、水泳ニッポンの名を高めた。

 周囲の期待がかかった陸上では、南部忠平が三段跳びで、世界新記録となる15メートル82を跳んで優勝した。南部は走り幅跳びでは世界記録保持者だったが、三段跳びは専門外。エース格の織田幹雄、田島直人が故障するアクシデントをはねかえして、三段跳びで金メダルを獲得。走り幅跳びで3位だったうっぷんを晴らした。また短距離走では、「暁の超特急」の異名を持つ吉岡隆徳が100メートルで決勝に進み、6位入賞の健闘を見せた。

 閉会式を前に、馬術では大賞典障害飛越個人で西竹一が愛馬「ウラヌス」に騎乗して優勝した。男爵の爵位があり、現地で「バロン・ニシ」と呼ばれていた西は報道陣に囲まれると、「We won(我々は勝った)」と、人馬一体の勝利を強調。それまでは反日を唱えていた地元新聞もこの時ばかりは、西の快挙を大きく報道した。

 西には後日談がある。それからほぼ13年後の1945年。西は太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島で戦っていた。西がいることを知った米軍は投降を呼びかけたが、西は「ウラヌス」のたてがみを身に付け応戦。硫黄島で最期を遂げた。

バロン西

西 竹一陸軍大佐、陸軍戦車第26連隊長

ロサンゼルス・オリンピックの障害馬術で優勝、「バロン西」の愛称で世界的に有名。


昭和19年6月20日 戦車第26連隊牡丹江より硫黄島へ動員下令。

昭和19年7月18日 輸送船「日秀丸」で硫黄島に向かう途中敵潜の雷撃で沈没。硫黄島に上陸後、補充戦車を含め隊の現地再編を図るが、米軍戦車との性能・物量差より苦戦。その後歩兵戦闘に移行。

昭和20年 3月17日、戦死(玉砕)。

栗林中将の訣別電

 戦局遂に最期の関頭に直面せり、十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を念願しつつ全員壮烈なる攻撃を敢行する。

 敵来攻以来、想像に余る物量的優勢をもって陸海空より将兵の勇戦は真に鬼神をもなかしむるものがあり。

 しかれども執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで倒れたためにご期待に反しこの要地を敵手にゆだねるやむなきに至れるは、まことに恐懼に堪えず幾重にもお詫び申しあぐ。

 今や弾丸尽き水枯れ、戦い残るもの全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするにあたり、つくづく皇恩のかたじけなさを思い粉骨砕身また悔ゆるところにあらず。

 ここに将兵とともに謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ、永久のお別れを申しあぐ。

 防備上に問題があるとすれば、それは米国との物量の絶対的な差で、結局、戦術も対策も施す余地なかりしことなり。

 なお、父島、母島等に就いては同地麾下将兵如何なる敵の攻撃をも断こ破砕しうるを確信するもなにとぞよろしくお願い申し上げます。

 終わりに駄作を御笑覧に供す。なにとぞ玉斧をこう。


 国のために重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき

 仇討たで野辺に朽ちじ吾は又 七たび生まれて矛を報らむぞ  

 醜草の島にはびこるその時の 国の行く手一途に思う 

太平洋戦争開戦

 今から65年前の今日、帝国日本軍はハワイ・オアフ島のパール・ハーバーに集結していたアメリカ軍艦隊を攻撃。アメリカ軍に甚大な被害を与えた。1時間後、日本の駐米大使はアメリカに対して最後通牒を執行、太平洋戦争が始まった。

 本来は、この最後通牒が出た直後に真珠湾攻撃がなされる予定だったが、文書のタイプを、重要文書であるからといって秘書に任せず、大使自らが打ったため、予定の時刻を大幅に遅れてしまったという。このため、日本の攻撃は戦争状態にない国に対して非人道的なゲリラ攻撃を加えたという、国際法に反する卑劣な行為であることになってしまった。

 もっともアメリカは日本の暗号通信は全て解読して日本が最後通牒を執行することも、パールハーバーを攻撃することも知っていたが、なぜかこのことがハワイに集結していた部隊には知らされていなかった。その結果、ハワイのアメリカ軍は完全に不意打ち攻撃を受け、2000名を越す死者を出し18隻もの艦船を失うことになってしまった。

 太平洋戦争の開始は日本・アメリカ双方にとって悲劇なことでした。

 この作戦を実行するため、日本の艦隊は鹿児島湾で桜島をオアフ島に見立てて何度も訓練を行い、ハワイに迫った。そして佐世保の現在のハウステンボス近くに今も立つ針尾無線塔から発せられた「ニイタカヤマノボレ」の信号を受け、攻撃を開始。

 完全に相手の虚をついたため、日本側の被害は比較的少なく、死者は64名、失った航空機29機。また指揮官の南雲忠一中将は敢えて2度目の攻撃は避けてほぼ無傷に近い状態で艦隊を返し、「トラトラトラ」の信号を発し、攻撃成功を報告した。

 時差の関係もあり、まだ最後通牒が執行されていなかったとは知るよしもなく。
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