硫黄島で戦死した五輪メダリストといえば、多くの人はバロン西こと西竹一中佐を連想されると思います。西中佐は昭和7年(1932)のロサンゼルス大会の最終種目・馬術障害にて見事優勝し日米の英雄となりました。そして、硫黄島での最期と併せて、バロン西の生涯は栄光と悲劇を織り交ぜて語り継がれています。
一方、奇しくも同じ大会に参加し、水泳の男子100m自由形で銀メダルを獲得した河石達吾(かわいし たつご)選手もその12年後、西竹一中佐と時を同じくして硫黄島に渡ることになったのです。
今日は、西中佐に比べ、ほとんど語られることのなかった河石中尉について紹介します。
大学3年の時、河石は五輪代表に選ばれた。6月に決定した水泳代表41人のうち、男子100m自由形代表選手は、宮崎康二(浜松一中、現:浜松北高校)・高橋成夫(早大)・河石達吾(慶大)の3人。選考大会での成績は5位と振るわなかったため、代表に選ばれることはないと考えていた河石は発表の当日、会場の神宮水泳場(現:神宮プール)には行かず、銀座に出かけていたが、店のラジオからニュースが流れ、自分の名前が代表選手として報じられたのであわてて会場に駆けつけたとの話が残っている。
昭和7年8月6日15時30分、水泳の2日目、男子100m自由形の決勝戦が行われた。会場には約8千人の観客が詰めかけていた。
決勝に進出した選手は日米それぞれ3名ずつ、
1.シュワルツ 2.河石 3.トムソン 4.高橋 5.宮崎 6.カリリ
の順番でコースに並んだ。
レースはまずトムソンが飛び出し、カリリと宮崎がこれに続いた。50mのターンの時点で河石は5位であった。しかし後半、宮崎と河石は順位を上げ、ゴール直前、一気に先頭に出た。
結果は、宮崎が優勝(58秒2)、河石が2位(58秒6)、シュワルツが3位(58秒8)、高橋は5位(59秒2)であった。
しかも宮崎のタイムは五輪新記録であり、河石もまた五輪記録タイ、高橋は日本記録タイという堂々たる成績であった。
河石は「カリリやシュワルツ等に勝つとは夢にも思いませんでした。私としては最後のタッチに気をつけて、それで幾分なりとも勝とうと努力したつもりです。」と試合直後のインタビューに答えている。
この大会で男子水泳は6種目中5種目で優勝するという素晴らしい成果をあげ、まさに「水泳王国日本」であったが、一方で河石選手のように好成績ながら金メダルに届かなかった選手の活躍が目立たなくなってしまったことは否めない。
第10回ロサンゼルス五輪
大会期間 : 1932年7月30日-8月14日
種目数 : 16競技128種目
参加国数 : 37
参加選手数 : 1328
日本人参加人数 : 192
日本のメダル数
金:7
☆南部忠平 三段跳び
☆宮崎康二 100m自由形
☆北村久寿雄 1500m自由形
☆清川正二 100m背泳ぎ
☆鶴田義行 200m平泳ぎ
☆競泳男子800mリレー
☆西竹一 馬術・大賞典障害飛越個人
銀:7
☆西田修平 棒高跳び
☆ホッケー
☆河石達吾 100m自由形
☆牧野正蔵 1500m自由形
☆入江稔夫 100m背泳ぎ
☆小池礼三 200m平泳ぎ
☆前畑秀子 200m平泳ぎ
銅:4
☆大島鎌吉 三段跳び
☆大横田 勉 400m自由形
☆河津憲太郎 100m背泳ぎ
☆南部忠平 走り幅跳び
この大会は、前年に満州事変が勃発するなど、地元では反日感情も高まっていた中で開催された。40年に東京での五輪招致を目指す日本は大選手団を派遣。あわせて18個のメダルを獲得して、世界の一流スポーツ国への名乗りをあげた。
競泳で男子が6種目中5種目を制した。特に100メートル背泳ぎでは清川正二、入江稔夫、河津憲太郎の3人で、金銀銅の各メダルを独占し、水泳ニッポンの名を高めた。
周囲の期待がかかった陸上では、南部忠平が三段跳びで、世界新記録となる15メートル82を跳んで優勝した。南部は走り幅跳びでは世界記録保持者だったが、三段跳びは専門外。エース格の織田幹雄、田島直人が故障するアクシデントをはねかえして、三段跳びで金メダルを獲得。走り幅跳びで3位だったうっぷんを晴らした。また短距離走では、「暁の超特急」の異名を持つ吉岡隆徳が100メートルで決勝に進み、6位入賞の健闘を見せた。
閉会式を前に、馬術では大賞典障害飛越個人で西竹一が愛馬「ウラヌス」に騎乗して優勝した。男爵の爵位があり、現地で「バロン・ニシ」と呼ばれていた西は報道陣に囲まれると、「We won(我々は勝った)」と、人馬一体の勝利を強調。それまでは反日を唱えていた地元新聞もこの時ばかりは、西の快挙を大きく報道した。
西には後日談がある。それからほぼ13年後の1945年。西は太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島で戦っていた。西がいることを知った米軍は投降を呼びかけたが、西は「ウラヌス」のたてがみを身に付け応戦。硫黄島で最期を遂げた。
一方、奇しくも同じ大会に参加し、水泳の男子100m自由形で銀メダルを獲得した河石達吾(かわいし たつご)選手もその12年後、西竹一中佐と時を同じくして硫黄島に渡ることになったのです。
今日は、西中佐に比べ、ほとんど語られることのなかった河石中尉について紹介します。
大学3年の時、河石は五輪代表に選ばれた。6月に決定した水泳代表41人のうち、男子100m自由形代表選手は、宮崎康二(浜松一中、現:浜松北高校)・高橋成夫(早大)・河石達吾(慶大)の3人。選考大会での成績は5位と振るわなかったため、代表に選ばれることはないと考えていた河石は発表の当日、会場の神宮水泳場(現:神宮プール)には行かず、銀座に出かけていたが、店のラジオからニュースが流れ、自分の名前が代表選手として報じられたのであわてて会場に駆けつけたとの話が残っている。
昭和7年8月6日15時30分、水泳の2日目、男子100m自由形の決勝戦が行われた。会場には約8千人の観客が詰めかけていた。
決勝に進出した選手は日米それぞれ3名ずつ、
1.シュワルツ 2.河石 3.トムソン 4.高橋 5.宮崎 6.カリリ
の順番でコースに並んだ。
レースはまずトムソンが飛び出し、カリリと宮崎がこれに続いた。50mのターンの時点で河石は5位であった。しかし後半、宮崎と河石は順位を上げ、ゴール直前、一気に先頭に出た。
結果は、宮崎が優勝(58秒2)、河石が2位(58秒6)、シュワルツが3位(58秒8)、高橋は5位(59秒2)であった。
しかも宮崎のタイムは五輪新記録であり、河石もまた五輪記録タイ、高橋は日本記録タイという堂々たる成績であった。
河石は「カリリやシュワルツ等に勝つとは夢にも思いませんでした。私としては最後のタッチに気をつけて、それで幾分なりとも勝とうと努力したつもりです。」と試合直後のインタビューに答えている。
この大会で男子水泳は6種目中5種目で優勝するという素晴らしい成果をあげ、まさに「水泳王国日本」であったが、一方で河石選手のように好成績ながら金メダルに届かなかった選手の活躍が目立たなくなってしまったことは否めない。
第10回ロサンゼルス五輪
大会期間 : 1932年7月30日-8月14日
種目数 : 16競技128種目
参加国数 : 37
参加選手数 : 1328
日本人参加人数 : 192
日本のメダル数
金:7
☆南部忠平 三段跳び
☆宮崎康二 100m自由形
☆北村久寿雄 1500m自由形
☆清川正二 100m背泳ぎ
☆鶴田義行 200m平泳ぎ
☆競泳男子800mリレー
☆西竹一 馬術・大賞典障害飛越個人
銀:7
☆西田修平 棒高跳び
☆ホッケー
☆河石達吾 100m自由形
☆牧野正蔵 1500m自由形
☆入江稔夫 100m背泳ぎ
☆小池礼三 200m平泳ぎ
☆前畑秀子 200m平泳ぎ
銅:4
☆大島鎌吉 三段跳び
☆大横田 勉 400m自由形
☆河津憲太郎 100m背泳ぎ
☆南部忠平 走り幅跳び
この大会は、前年に満州事変が勃発するなど、地元では反日感情も高まっていた中で開催された。40年に東京での五輪招致を目指す日本は大選手団を派遣。あわせて18個のメダルを獲得して、世界の一流スポーツ国への名乗りをあげた。
競泳で男子が6種目中5種目を制した。特に100メートル背泳ぎでは清川正二、入江稔夫、河津憲太郎の3人で、金銀銅の各メダルを独占し、水泳ニッポンの名を高めた。
周囲の期待がかかった陸上では、南部忠平が三段跳びで、世界新記録となる15メートル82を跳んで優勝した。南部は走り幅跳びでは世界記録保持者だったが、三段跳びは専門外。エース格の織田幹雄、田島直人が故障するアクシデントをはねかえして、三段跳びで金メダルを獲得。走り幅跳びで3位だったうっぷんを晴らした。また短距離走では、「暁の超特急」の異名を持つ吉岡隆徳が100メートルで決勝に進み、6位入賞の健闘を見せた。
閉会式を前に、馬術では大賞典障害飛越個人で西竹一が愛馬「ウラヌス」に騎乗して優勝した。男爵の爵位があり、現地で「バロン・ニシ」と呼ばれていた西は報道陣に囲まれると、「We won(我々は勝った)」と、人馬一体の勝利を強調。それまでは反日を唱えていた地元新聞もこの時ばかりは、西の快挙を大きく報道した。
西には後日談がある。それからほぼ13年後の1945年。西は太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島で戦っていた。西がいることを知った米軍は投降を呼びかけたが、西は「ウラヌス」のたてがみを身に付け応戦。硫黄島で最期を遂げた。